公平な観察者視点から見た太田言説の問題点

 8月15日に放映されたサンデージャポン(TBS)で司会者の一人、太田光が再び本件について発言した内容が週刊誌『女性自身』で採り上げられている。ここでは太田発言の真意がより正確に示されていると考えられる。そこで、問題の核心に迫るため、アダム・スミスの古典的名著”The theory of moral sentiments”(『道徳感情論』)におけるキーワードである"Impartial Spectator"「公平な観察者」という用語を借りて、この問題に迫ってみたい。

まず、上記雑誌において紹介されている太田光氏の発言を引用しておく。
「ただ、マスコミとかテレビは、その迷いをしないでやっている気がする。追及するのと同時に、山上容疑者がやったことを決して効果的なことじゃないっていうのも同時に同じ熱量で伝えないと。(テレビなどを)見てる側の中には、こうすれば世間が取り上げてくれるんだって勘違いする人間がいることを少なくともマスコミは意識しないとっていう気持ちだったんです」

この発言を見ると、論稿1で私が社会学者、古市憲寿と同趣旨の発言として一括したことに少し修正を加える必要があるようにも思える。とはいえ、現時点でマスメディアの多くが事件の背景にある、旧統一教会の反社会性やそうした教団との政治家の癒着について追及していることの正当性に疑問を投げかける点では古市発言と共通している。そこで、今回の補論では、両者の違いを意識しながら、主に太田言説の問題性について考察したい。

スミスは共感''Sympathy'が市民道徳、社会倫理を形成するうえで重要な役割を果たすと考え、当事者の感情を非当事者である観察者(第三者)が想像力を駆使して自らを当事者の立場に仮想的に置いてみたとき(これは観察者が当事者が置かれている事情を知る或いは理解することから生じる)、当事者と同一の感情を感じるならば、つまり、当事者の抱く感情'Passion'と観察者が抱く感情'Emotion'が合致'Concord'したとき社会倫理的に意味のあるより深い共感が生じると述べている。これは観察者が当事者の示す表情などから直接伝播的に受けとる浅い共感とは区別されるものだ。

ただし、Smithはここで適正さ’Propriety'という概念を持ち出し当事者の感情が観察者がついてくることができないほどに激したものになる場合共感の糸が切れてしまうことも付言している。
さて、山上容疑者が置かれていた立場と彼の行動についてこうした概念装置を用いて考察してみると以下のようになる。 まず、山上容疑者が犯行を決行するに至る動機を支える彼のおかれていた事情に当たるのが、私が論稿1.で強調した2つの背景である。繰り返すと、


1.旧統一教会がその反社会的行動で信者のみならず、その家族にも甚大な被害を与え家庭崩壊を誘発していたにも拘らず、そうした反社会団体とつながりを持ち、安倍氏のようにその広告塔の役割まで引き受けていた政治家が少なからず存在したという事実があり、カルト2世といわれる被害者家族の中には、この教団のみならずそれに対して社会的承認を与える役割を果たす政治家への恨みが鬱積していた。

2.宗教団体を標榜しながら、霊感商法など反社会的行動を続けている旧統一教会を摘発する公権力によるこの教団への捜査介入が安倍政権下の政治家の圧力を受け阻止され進まなかったという事実がある。そうした政治的圧力は第2次安倍政権下で強まるだけではなく、同じく政治家の圧力で、旧統一教会の名称変更(→世界平和統一家庭連合)が容認される事態さえ起きているのである。
この二つの背景が重なったことが、今回の安倍氏射殺というテロ事件を生んだ要因であり温床でもある。

1.で指摘した反社会的教団と一部政治家の癒着が2.の犯罪組織の法に基づく摘発を抑え妨害してきたという事実は、カルト教団によって家庭を犠牲にされた2世たちの憤りが法による裁きを待つという回路を絶たれてしまったことを意味する。これが公的裁きが期待できない中で彼らに残された手段;私刑人による処罰というテロへの道を切り開いたのである。

まず、我々が公平な観察者の立場でものを見ようとするとき、当事者(山上容疑者)がおかれた事情、カルト教団によって家庭を犠牲にされた2世たちの憤りが法による裁きを待つという回路を絶たれてしまったとすれば、我々は当事者の立場に身を置いた時、どのような感情を抱くだろうか。おそらく多くの人は山上当事者が抱いたのと同質な憤怒の感情を抱くであろう。それが深い共感を呼ぶことは言を俟たない。問題はその結果彼がとった行動:憤怒の対象に対する私刑人としてのテロ行為である。これはスミス的に表現するとPropriety 適切さを逸した行動ということになり、共感の糸を切ってしまう行為となる。太田が強調するのはこの点であろう。彼の常軌を逸した私刑人としての行動にはいかなる承認をも与えてはならない。これは彼の主張する通りであろう。ただ、現在の太田がヒートアップしていると指摘するメディアの論調を含め、彼の私刑人としての行動に支持を与えるものはほぼないといっていいだろう。

ここで我々が注意しなければならないのは、彼の行動そのものが共感できないからと言って、彼を私刑人的な行動へと追いやったカルト2世が置かれた状況への深い理解と共感的感情を断ち切っていいということにはならないということだ。むしろ、カルト2世たちがおかれた怒りのやり場がない状況こそがテロを発生させる社会的土壌であり、その温床となっているという事実にこそ我々の視点を据えなければならないのである。したがって我々が、この社会的土壌、宗教法人を語る教団の反社会的行動への指弾、それと癒着する政治家への追及、公的権力による捜査の進展などをスピード感をもって進めることが第2の私刑人の出現を阻止する最も有効かつ必要な措置なのである。
太田に欠けているのは、当事者(山上容疑者)がおかれた事情への共感と、当事者が実際にとった行動への評価とを区別して事態を考察するという適正な均衡感覚に基づく判断力である。
太田が強調するように、もしわれわれが山上容疑者のとった行為、私刑人としてのテロ行為の是非に焦点を置き始めると、たちどころに彼のおかれていた事情への共感的感情は薄められ、さらには断ち切られてしまうであろう。問題はそれでいいのか、ということなのである。

現状を見る限り、メディア等から追及の目を向けられても、「知らなかった」「選挙の協力を得るかどうかはその時点で適切に判断する」、果ては「何が問題なのかよくわからない」などとうそぶく政治家が後を絶たないなかで、メディアや世論がヒートアップしないならば、ことは元のさやに納まり、私刑人の再来という皮肉な結果が待ち受けるのである。これこそ意図せずして陥ってしまうテロ待望論そのものといえるのではないか。
以上、主に太田の言説に即した考察を行ったが、古市による「めざまし8」における橋下徹との対談によるこの事件への言及は、太田とはやや異質さを感じさ せるものとなっている。この点については稿を改めたい。

(文責HP担当M)
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